「夾竹桃の毒を呷る、の旋律」
深田 青
ショパンの旋律が流れていた。
音は悪くノイズ混じりであったがショパンはそれでも繊細な美を演奏し続ける。
清い音色を帯びた大気を震わせながら無遠慮に列車が走って来る。
青白い顔をした幾人もの同じ顔の詩人たちを乗せ、何処へかはわからぬが俺の傍らを切ってゆく、そうしてショパンを掻き消さんとする。
俺は詩人であったが其の列車に乗らず線路沿いの有刺鉄線の棘で己の惨めな魂を愛でながら実に孤独な気持ちで列車の走り去るのを見ていた。
乗らなかったというより、乗れなかったのであろう、とピアノの音が語りかけて来る。
ああ、そうだ。俺は詩人であると思っていたがもう詩人ではなくなるのだ。だからあの列車には乗らず此処にこうして在るのだろう。
俺の背後でショパンを演奏していた少女は言った。
「わたしがいらなかったわ」
俺は言う
「何に」
少女は言う
「世界に」
俺は言う
「俺も」
俺たちは顔を見合わせて、線路沿いの砂利道を逸れて山道に入ってゆく。
茂りは密に初夏の清涼に翳りを落とし二人の孤独の終わりを演出している。
少女は言う
「あたし、夾竹桃がいいの。白のよ。ウエディングドレスのようなんだから」
それに俺は返す
「あれの毒はそんなに強いのかい」
少女は言う
「綺麗な白なんだから、きっと強いに違いないと思うの」
綺麗な白「だから」毒性が強いというのはどこでどうして繋がるのだろう。少し腑に落ちなかったが子供の言うことなので遮らず流した。
それから思い出したので俺は言った。
「あれには死体が埋まっているって。その花色はその人の骨の色かもしれない」
少女は其れを聞くと少し黙ってから虚空で指を躍らせながら言った。
「鍵盤の色はあたしの骨の色かもしれない」
「光沢があっていいね」
俺がそう云うと少女は少し嬉しそうに微笑を浮かべた。
俺は俺やこの少女を宇宙から弾こうとする、ある種、救いのようである反応について思いを巡らせていた。
今日こそはとうとう弾かれるだろうか。この呪わしい憂き世から。
俺たちは今日毒を呷る。
植物性の、慈愛溢れる純粋な毒だ。
俺はもう一切詩句を紡がない。死ぬのだから、吟ずることをやめる、ただそれだけのことだ。 生き続けたのならば詩をやめぬが、死ぬのだからやめるのだ。
俺たちは深い山中を、夾竹桃を求め彷徨い歩き続けた。
少女は相変わらず指を跳ね躍らせていて、俺の脳裏ではノイズ混じりのショパンの旋律が絶えず流れ続けていた。
この音色が止む時に、俺はやっと解放されるのであろう。
嗚呼、そう思うと、長年好んで聴き親しんだショパンに忌まわしささえ憶えるものだ。
見事に花咲き誇る夾竹桃は山陰であるのに不思議と陽光に満たされた空間に佇んでいた。
陽光を受ける白い夾竹桃は光を反射し、其の花色の余りの眩しさに世界は彩度を落としていた。
俺はその花の芳香に酔いしれつつも目的を果たす為に刃物で夾竹桃の枝にいく筋もの傷を入れた。
俺たちは白い樹液が垂れてゆくのを暫く黙って見ていた。
少女は細い指で樹液を絡めとると不思議なほど綺麗な面持ちで「さようなら」と言うと樹液を舐め、驚く程あっけなく逝った。
俺の中でなかで流れ続けていたショパンの音は少女の死ともに止んだ。
無音――。
無音はひどく優しかった。
俺はその優しさに抱かれながら夕暮れを過ぎるまでさめざめと泣いて、夜の始まる頃にやっと樹液を口に含んだ。
俺は弾かれた。
憂き世から、外へ。
俺が死んだ後に夜の闇中をノクターンが滑っていたかどうかはもう知る術はないが、やはりショパンの儚げにも美しい旋律は今宵も明日も誰かの耳に安息にも似た美しい憂鬱を滑り込ませているのだろう。