「人魚の歌、罪科の味」



 罪科は贖われなければならない。
男は沈黙のなかで繰り返されるその声に怯え竦んでいた。
寒冷に、もはや感覚を失った冷えたつま先や指のことなど何も感じなくなっていた。
それほどの恐怖が男にはあった。
男は両腕で膝を抱え、小さく縮こまってその狭い部屋の隅にいた。
窓には鉄格子がはめ込まれ、その格子の隙間からは赤い満月が覗いていた。
男は右手の親指の爪を噛んだ。
それはこの男の癖ではあったが、
ここに入所させられて以来、男はその爪を噛みすぎて、もはやその指の爪はほぼ剥がれかかっており血の味がした。
だが男はそれをやめなかった。
消灯時間が訪れると男はいよいよ小さくなり、その暗い表情を強く膝に押し付けた。
赤い満月が、格子越しに男を見下ろしていた。
男は爪が剥がれて顕わになった血肉の味を味わい続けた。

――女を、思い出していた。

 女には名前が無かった。
男はそれを面白がって女に名前をつけた。
「では人形と呼ぼう。それがお前の名前だ」と言うと、女は呆けた顔でそれを聞いてひとつ呟いた。
「にんぎょ」
「違う、人魚ではない、人形だ」男がそういうと女は黙った。
元々女は知能に問題でもあるのか言葉を発さなかった。たったひとつ口にした言葉が先の「にんぎょ」というものであった。
男は気にせず女をそのまま畳の上に押し倒し艶やかな赤い着物の胸元に手を入れると女特有の柔らかな感触を弄んだ。
そうしているうちに男は女の両足の間に己の足を滑り込ませると、女の下半身をもう片方の手で撫で回しその奥を焦らす様にいじった。
女は性にも欠陥があったのか、幾度行為に及んでも云ともいわず、ただ虚空を眺めていた。
それを面白く思わなかった男はやがて「人形の分際で己を馬鹿にしているのか」と女に手を上げるようになった。
もうそんなことが三ヶ月も続いていた。

 三ヶ月前、女は寂れた漁師町でぼんやりとしているところを男に拾われた。
男が何を聞いても自分の名すら答えないので(答えられないと言った方がいいのかもしれない)男は一人暮らしをしている自分の狭い部屋に連れ込んで、なにか退廃的な共同生活を始めたのだった。
女は全く言葉を口にせず、食事もろくに取らなかった。常に静かにどこか遠くを見つめているだけであった。
女の肌は青白く、漆黒の長い黒髪はいつも艶やかに潤っていた。
男は思った。金はかからないし、煩くも無い。第一こんなにいい女は他にはいないと。そう思った。そう、最初は。
しかし三ヶ月もたつと男は女の存在を疎ましく感じるようになっていた。
女が愛嬌を振りまいて、行為の際にも喘いで見せるものなら違っていたかもしれない。
だが女は本当にただの人形のように何も語らず、飽きもせずに虚空を見つめていた。
苛立った男は女に手を上げた。
撲たれた女はそれでも表情を変えずに焦点の合わぬ眼でどこか遠くを見ていた。
男はいった
「己を見ろ!見るんだ!見ろ!」
しかし女はそれに応えることが出来なかった。男の言葉の意味すらもわかっていなかったのかもしれない。
血気に駆られた男は白くか細い女の首を絞めた。
女はそれでも一切抵抗せずにやがて果てた。
男は女の死体をばらばらにした後で荷車に女の死体を乗せ、断崖から青く深い海へとそれらを棄てた。

その夜から男は夢を見るようになった。
肉を食べる夢であった。
配給もままならない戦時下にあって肉は馳走に違いなく男は夢ながらにも喜んでその肉を食べた。
胃袋は不思議にどれだけ食べても満腹にはならなかったが、肉料理は次々と出されるので男はそれを食べ続けた。
幾日目かの夜、男はまた夢で肉を食べ続けた。けれどもその晩の夢には展開があった。
毎夜、男の座するテーブルに料理を運んでくる女中が、静かな透き通るような声で「お味はいかがですか」と男に尋ねたのだ。
男はその女中の顔を見てナイフを落とした。冷や汗が吹き出て全身に震えがはしった。 女だった。
殺して棄てた、あの女であった。
女は言った
「言ったでしょう。わたくし人魚だと」
女は自ら纏っていた着物をするりと脱いだ。
腰から下は、魚のそれであった。
「人魚の肉を食べると、その者は呪われるんです。ご存知?」
男ははっとして皿の上の肉を見やるとすぐさま立ち上がって、床を這うようにして部屋の出口を求めた。
が、不思議なことに部屋は四方壁だけで囲われていてどこにも扉が無かった。
「わたくし。憧れていました。人間に恋をする人魚の姫の物語に、けれど」女は途中で言葉を区切ってから続けた。
「けれどこんな男に拾われるなんて」
女の冷たい視線が男を見下しそして刺した。
震え竦む男をよそに女は歌を歌い始めた。
それは人間の男を魅了し虜にしてしまう恐ろしくも美しい歌であった。そう、人魚の。


それから数ヶ月、男は女の歌を聴きながら肉を食べ続ける夢に魘された。
やがて発狂した男は自殺未遂を繰り返し、重度の統合失調症と診断され精神病院に収容された。

爪を齧り続けているうちに男は自分の指の肉を噛み千切り食べていた。
口内に広がる己の血肉の味は、人魚の肉とはまるで違いその不味さに男は吐き気をもよおした。
それは罪科の味であった。
呪われている。
男はそう思いながら漆黒に妖艶に浮ぶ赤い満月を見上げた。
赤い満月はどこか不気味な笑みを浮かべているように見えて男はすぐにその目を逸らした。