「春文暗夜」


 暗く蠢蠢たる憂いにいつか慣れて了ったのか、死に触れる独り遊びの際、繰り返し服用した種々の薬物に依って神経が死んで了ったのか、空腹と寒さの他なにも感じることが出来ないでいる己は感性の行路病者であるなと思いながら硬い布団の中で茫漠としていたが仏寺から除夜の鐘が聞こえ始めると振る舞いの甘酒を思い当たりそろそろと身を起こし空気ランプを点けた。
 古い下宿屋の二階の一室であるこの四畳半は灰色の土壁が四方から押し迫る独房のようにも感ぜられる部屋で、室内には布団と書物と己の冴えない姿だけがあるはずだが、鮮やかな色が目に入る。赤。
 其れは女物の袷で金糸で刺繍された花車に椿やらの花があしらわれた豪奢な縮緬だった。訝しむこともなく何とは無しにシャツの上へ其れを羽織ってみる、と、是に淡く匂う香や思いの外ずっしりとした着心地を気に入り其の侭自前の八尺五寸の味気ない平ぐけで結んで仕舞うと、陋巷のひずみに千紫万紅の艶が咲いているというのは少し面白い絵かもしれないと考え、もとより二つに折って巻いていた幅あるマフラーを広げて頬かむり下宿を出た。出たら出たで面白さなど微塵も無いことに小さく滅入りもしたが「甘酒。生姜の入った」と、其れを呟くともう是の侭行こうかと決めて煩く建て込んだ小さな家々の軒の隙に瀰漫する闇を歩いていった。

 角を曲がると五六間先に円く大きな柑橘がぽかりぽかりと浮いているのがよく見えるのでさては月が出ているなと思った。そうと云って仰ぎ見るでも無く電柱を幾らか過ぎてゆき石畳の開けた通りに出た。その通りには交差して電車が走っており、乗れば数分で神社に着き目的を果たせるが金が勿体無いので線路沿いを只管歩いてゆく。擦れ違う人が屡々好奇の目で見ているのが解るが捨て置き遥か西に聳え立つ山から吹き下りる風のことなどを思う、冷た過ぎる。
 あの山の為、雲は雪を漱がれこの町は厳しい寒風が吹くばかりで雪の幻想的な化粧を纏うことは無い。が、山の花崗岩を通り抜け地下に流れ至る水は酒造りに好適であるので幕末以来この辺りは白壁の酒蔵がいくつも建ち並んでいる。酒、と云えばその名水の使われた神酒にも或いはありつけるだろうか、いやきっと。などと思っていた折り除夜の鐘に紛れか細い音が流れて来る、笛。それから太鼓や三味線も聞こえるではないか。何処からであろうと足を止めた自分の丁度すぐ横に長く伸びる小径があるのに気づく。その先に橙に明るい一角を視る。線路が一本走るだけでもうこの辺り迄来るとあるのは松林だけではなかったろうかと頭を擡げる。暫し凝っとした後、己は小径の砂利の上に歩を進めることにした。
 松影が黒過ぎるように感ずるのは矢張り月が出ている所為だろう。冴え冴えとした闇を流れてくる囃子の音色が練絹のように肌に絡まり心地好くはある。鬱蒼と黒いばかりの林を抜けると朱塗りの鳥居に続く参道を挟んで小さな住居が五六軒建ち並んでいる、緑や赤や黄やらの綺麗な和紙が貼られた四角や円筒の行灯が、軒先から吊られていたり戸の前に据えてあったりして無数に灯る其れらの明りで錦絵の中に迷い込んだ風で恍惚を味わいながら進んでいった。

 鳥居をくぐると然程広くもない境内に小さいながらしっかりとした作りの能舞台が置かれておりその傍で篝火が焚かれていて中々に明るい。篝火に照らされて浮かび上がる人影はそれぞれ楽器を持っている。顔を見てギョッとする。皆一様に能面をつけているではないか。そのなかにあった白狐の面の男が三味線の撥をベンッ、と遣りながら近付いて来て云う。
「待っていました。寒い中よう来なすったねお嬢さん、サ、何卒」
撥の象牙より赤味が無い分際立って生白く見える手を伸べ己の手を取る、突き退けようとするのに煙のように絡まり解けない手。
「いや是は唯の独り遊びで。己は男ですよ、ホラ」
金に彫り込まれた眉は微動することを知らぬが嬉々とした表情が見て取れる。不思議な面である。
「男であるにしても頬の肌理の細かいこと、女に見える」
「月の所為でしょう」
「三姫を演る女方でもこんなに美しくは見えないものです、皆にもようく見せてやっておくんなさい」
連れられて面の連中のなかに抛り込まれる。猩々、ひょっとこ、飛手に般若、尉など様々な面が楽器を奏でるのを止め己を仔細まで眺め回し頷いたり顔を見合わせてはまた音を奏で始める。一言も喋る者はいないが白狐の面の男が「お嬢さん、気に入られたようです」と云って嗤う。
囃子が何かキチガイじみた調子になってゆく。白狐の面の男の手に再び煙のように捕われると舞台へと導かれた。
「妖怪怨霊鬼神の類迄入り交じってなにするんです」
「それァお嬢さん、新年に福を呼ぶ神事に決まってます。豊作大漁商売繁盛疫病退散無病息災家内安全安産祈願恋愛成就、兎に角全部です」
馬鹿げている。そもそも装束もみな勝手で鎮具破具だ。
「大体あなた方は人間じゃあないんでしょう」
云ってみると面の連中の笑みが一層奇妙な歓喜に満ちる。般若や鬼の面など笑っているはず無かろうにそう見えるのだから怪しい。
「小面がありますが、その顔、つけんでも面のようだお嬢さんまるで表情が無い」
云いながら白狐は漆の椀に注がれた御酒を寄こす。滑らかな酒の表面に篝火がなゆやかにたゆとうている。この奇妙な連中の囃子の中で其れを見ているうちになにかもう酔った風になってくらめいて了いフラリと後ろに倒れそうになる。白狐が其れを片腕のうちへ留め「サァお飲みなさい」と云う。
 己は一体全体此処で何が行われているのか釈然としないまま神酒に口をつけ其れを飲み干した。なんと。なんと強い酒であろう。纏わるような濃さの酒精が咽喉を焼く。――ベンッ。束ねられた美しい絹糸が微々と震い三味線の音が指先からつま先にまで熱をもって響いてゆく。熱イ。酌を取る猩猩の赤い手から次、また次へと椀へ注がれる神酒をなにかわからない侭に飲んでいる。なんと深みのある味わいの酒であろう。まさに甘露。若しや忉利天に謳われる霊液を飲んでいるのではなかろうか、嗚呼己はいま。恍惚の侭に囃子の音と闇のなかへ喪失して了いそうな意識を白狐の面の男の手が強く引き戻す、そうして云う。
「是もまた興」
面をずらし覗く唇は嗚呼其れでも人間のもののようにも見える。笑む唇が其の侭己の首筋それから鎖骨の辺りへ幾つかの濡れた熱を添える。熱イ。舞台の梁に凭れ息を漏らす。肩から滑る赤、其のうちの草臥れたシャツの釦をいつの間に外したのか白狐の男の舌が晒された胸を這う。
「嗚呼」
漏らして了った声が妙に女染みているのに居た堪れず恥辱に震う体躯が矢張り、熱イ。
「なに、興ですよ。興」
容易く解かれた袴の紐を絡ませた侭己のうちに潜ろうという白狐の面の男の指。得も知れぬ快感に震うこの体躯はまるで本当に女のもののようだ。何、滑るように入ってくるというこの感覚は最早。白狐の面の男が耳朶に這わせていた唇から零す。
「矢張り」
狂気のように鳴り響く囃子と燃える篝火の暗夜、すっかり露呈されて了った己は神々の舌を歓喜させるに十分に余りある処女であった。


「お嬢さん今宵は月が丸いのでわたしどもは飢えて仕方が無い」

其の声を最後に己は喪失した。悦楽の闇に、久しく感じ得た興であった。滑り落ちた袷が満月の微光に音も無く唯々赤い夜であった。