「K」

大正3年に小説の中で死んだ男の亡霊に取り憑かれている。
小説の中では世は明治だったが、小説家が黒いインキで原稿上に其の男を描き殺せしめたのは大正3年なので自分の中では大正3年に死んだ事になっている。
九十四年の暗く長い路を歩いてやって来たこの亡霊はひどく憂鬱な面持ちで光の無い目でかなしみを訴える。
が、目よりもその首にぱっくり開いた口の方が雄弁に其れを語る。
尽きないかなしみが今も尚劇しく血を噴き出させるのだからここ数日で部屋が血だらけであるが僕は其れを厭わない。
もう十数年前にこの男の登場する小説を読んだが其の時僕はこの男に非常な親しみをおぼえた。
親兄弟健在ながらも勘当されていたに等しく親友にも手酷く裏切られて了う極めて孤独なこの男に僕は何故か未来の自分を錯覚したような気がしたのだった。
十数年という時間をかけて実際僕は孤独に蝕まれて了っていま暗い部屋に亡霊と対峙している。
久しく一人であったから亡霊であろうと他者に見えて嬉しく僕は彼の長旅の労をねぎらった。
彼は血に塗れた手をゆっくりと持ち上げ僕を指し示した。
其の指の先には僕の首があり首には横に走った未遂の傷痕がある。
そうか是を目印にこの男は来たのかと納得する。
僕は指先で傷痕をなぞる、自分の指の冷たいことに少し驚く。
この部屋は寒いから可くないねと云って電気ストーブをつける、ニクロム線がどうかしたのか三本あるうちの一本は点かないがそれでも暖かい。
改めて亡霊に向き合って、もうナイフはないよ家人に棄てられて了ったんだと云う。
台所の包丁は好くない、絵が描けなくなった時にこんな役立たずの右腕は切り落としてやろうと思って一番切れ味の良さそうな肉切り包丁でやったけどね、是だけ切るのに可成り苦労したよと袖を捲り古傷を示す。
彼は痛かったろうと云う。
目の前でばくばくと血を溢れさせている彼の傷の前では痛かったという記憶も果たして疑わしく思えて僕は笑って首を傾げる。
己は一息にやって了ったから痛さなんてあったか、それにもう随分昔のことだからか憶えていないと彼も笑う。
電気ストーブは赤々と熱を発しているが部屋に満ちる凍てついた空気全部を和らげはしない。
コーヒーでも入れよう、暖まるから。ミルクと砂糖はいる?と聞くと彼は首を横に振る、血がいっそう噴き出す。
熱いコーヒーを一口飲むと僕は薄荷煙草に火を点ける。彼にもと勧めると彼は暗がりの一角を指差して是を点けてくれと云う。板張りの床の上に香炉がある。
死んで了っては線香の方が美味いと云う、
美味いって香に味があるのかいと聞くとなんでも仄かに甘く美味である上に心地好いくらめきがあるそうだ。
僕は普段から香を愛していてよくその香りを愉しむがそうか死んだならそういった具合にも愉しめるのかと少し面白くなる、然し僕など死んでも線香を誰があげよう、と紫煙を闇に溶かす。
彼は己も死んでから月に一度だけ線香を味わう事が出来たがその人が自殺してからは今日迄味わっていなかった、いや美味いと笑う。
僕は微笑む。
彼に線香をあげていた人を小説で読んで知っている。
その人は彼を裏切ったが彼が怨んだりしていない事を知っている。
同じだからわかる、僕も誰も怨んだりしていない。
ただ僕は僕の呪わしい孤独や、孤独という鉄杭をこの身に穿ち続けて止まない運命を怨んでいる。彼もそうだろう。
そう考えている僕の顔を覗き込み大体を察したのか彼は僕の肩を軽く二度叩きその手を添えたまま云う、どうだろう毎日己に線香をあげて呉れないか。
其れは提案なのだろうと僕は直ぐに理解した。
其れは互いの孤独に一先ず休符を打つということである。
僕は強く頷いた。
彼はそれから、と続けると数珠を呉れたら有り難いと云った。
数珠、死んでいるのに今更経でも唱えるのかと聞くと、経は唱えないがひとつふたつと数珠を繰っていると落ち着くのだと云う。そして108つ珠のあるのがあれば嬉しいと笑った。
仏壇の引き出しを漁ってみたが108あるのは家には無いようだったので翌日買いに行って其れを渡した。
以来、僕の部屋では屡々数珠を繰る音が聞こえる。
昨日は線香の烟立ちこめる部屋で僕は煙草を彼は数珠を片手にチェスやオセロに興じた。そのまま夜を明かしてしまい寝不足ではあるが僕はコートを着て今から出掛ける。寝なくていいのかと云う彼に寝て了うと店が閉まるまで起きれないだろうから、と笑って部屋を出た。
遊び方を手ほどきしてくれると云うので安いポータブルの将棋を買いに行くのだ。

こういった訳で僕は亡霊に取り憑かれているがお陰で気分は上々だ。