「月食夜」
「そんなのあるわけないじゃあないですか」Kは線香を燻らせながら言い棄てた。
「何故?」俺が問うとKは口角を緩くも持ち上げて、けれども目尻は泣くように。そのような、曖昧な表情で言った。
「何故と問いますか。葵。」
暗い六畳間は不完全な月食により青白い光が亡霊の様に。Kの様に微かに、微かに仄めいている。
俺の煙草とKの線香の煙が渦を巻いてかなしみそのもののように立ち込めていて、一ツ灯る豆球が鬼火のようにも見え一層辛気臭いので俺は言った。
「この部屋はもう墓場だね」
「己達は、墓場要らずな輩ですね」とKは今度はとうとう笑った。
「けれどもK、俺はそれでも墓穴を掘り続けるのだよ。深く。深く。」
「どうしてそんなに掘るんですか」数珠を繰りながら問うKに俺は返す。
「莫迦だからね」
俺の掘る墓穴は深い。
彼の人に恋して了ってからというもの毎日毎日、否、毎秒毎秒掘り進めてきていたのだ。深くあり当然。
身を投げたなら。もう。あんなに好きで毎夜毎夜月や彗星を追い求め続けた空は、拝めない。其れを、甘受する夜が――。
「K、俺は今夜もう其れに飛び込もうと思う」
「どうして今夜なんです」
「月食だから」
「月食だと葵は穴に飛び込むって言うんですか」
「最期に見る空に、まさか月や彗星でも見て了ったら。それでも死ねると思うかい」
数秒の重い沈黙に数珠を繰る音だけが鳴る。暫く数珠繰りを続けてからKはポツリと言う。
「わかりません。己の死んだあの夜に何か光はあったろうか」其の言葉は何か一際のかなしみの様に俺の鼓膜に染み入った。
Kは八十数年以上も遠い昔に死んだのだ。記憶など午睡に見る夢よりも取るに足らないものだろう。
「どのような穴ですか」伏せていた顔をふと上げ、ぱっくりと大きく開いた件の傷口から黒い血をごぼごぼと吹き零しながらKは問うた。
「花に満ちているよ」
「花?」
「もう存分に掘ったからね。今日は遂に掘るのを止めた。そうして俺は今日という日、宵の口までずっと花を放り続けていた」
「嗚呼。だから何かいい匂いだと、思っていました」そう言ってからKは続けた。
「どんな花だい」俺の顔を覗き込むKの目が余りにも暗く黒いので黒雲母のようだと思った。思いながら俺は答えた。
「向日葵だよ」
「夏ですね。けれども最早、晩夏だ。もう枯れていやしなかったかい」
「いいや。咲き誇っていたよ」
「何処に」
俺は左腕を重そうに持ち上げ部屋の隅に積み上がっていた書物を指差した。
「ゴッホの画集だよ、其れから」其れから、と言うと俺は一つ深く呼吸をし酸素の甘さを確かめるように味わってからまた思い出したように続けた。
「詩集だよ」
いぶかしむKに俺は続けて述べた。
「向日葵を。青いと歌った詩人が俺は一等好きでね。その詩人の詩集さね」
「似合わずと洒落た事を」Kは血に塗れた右手で膝を軽く叩いて笑った。
「似合わないかい?」淡く笑いながら俺はKに問うた。
「似合わないとも。葵はただの莫迦ですから」そう言ったKはけれども言いながら俺の肩に手を廻した。手首に絡めていた数珠がじゃら、と鳴る。今宵は特別な夜だ、と。俺が既に着ていた一張羅がKの血に染まってゆく。構わない。と思った。俺ももう間もなく死ぬのだから。そう思いながらやはり淡くも笑っている俺の頬に止め処無く涙が零れ続けている。
まるで弱音を吐くように俺は言った。
「愛しているんだ」
Kは黙っていた。
「其の詩人を愛しているから。今宵もう俺は果てる」
震える声が裏返り、そう告白した俺の声はまるで少女の其れのように高い音だった。何故か、一層悲愴になり俺はとうとう笑むのを止め、本当に泣いた。
「葵、」俺の名を呼ぶKはゆっくりと立ち上がり矢張り血に塗れている手で俺の両手を引くと言った。
「踊りませんか」
「どうして」
突然奇妙なことを言うものだと思いながら俺は手を引かれる侭に立ち上がった。
「どうしてって。そんなに綺麗なレースの服を着ているから踊らなければ勿体無いでしょう」
笑みながらKが言って、初めて気が付いた。
俺が着ていた一張羅だと思っていたものはきっと恋する少女の着る美しく白いワンピースだった。
衣擦れの音がしゃらしゃらとまるで綺麗に鳴る。
「葵。飛び切り素敵な音楽で踊ろう。今宵は特別な夜ですから」Kはそう言って其れから続けて言った。
「聴こえますか。至高の楽曲が」
俺は瞬きを一つした。大粒の涙がまた幾つも頬を滑り落ちた。
「無音、だ――、」
血に塗れベトつくKの手にしっかりと包まれた俺の手は、思ったより小さい。
そしてKと手を取り一つのささやかな輪をつくる俺の視線の高さに黒い血の吹き零れ続けて止まないKの傷がある。俺の身長は、思ったより低い。
白かったはずのワンピースが。黒く、黒く染まってゆく。Kの血は、思ったより温かい。
無音に身を委ねながらステップを踏み始めた俺とKに一つの会話があった。
「葵、」
「何?」
「葵は知らなかったようですが、」
「うん?」
「葵は。莫迦だけれども、可愛い。莫迦な女の子だったんですよ」
其れが。其れが俺の最期の夜、最期の会話だった。
俺はKの黒い血にやさしく抱かれながら。深い、深い、深い墓穴の闇を、今まさに落下し続けている。
墓穴の深淵から風も無いというのに何故か舞い上がる向日葵の花弁が其れでも矢張り青いから、俺は最期に呟いた。
「Kを愛すればよかった。あたし、」